北都銀行伊藤新(あらた)頭取とお話をして感じること。

伊藤新頭取  ドリームリンク本社がある秋田市に本店を構える北都銀行。実は私の両親は、北都銀行の前身となる羽後銀行出身なのです。父は東北大学経済学部を卒業し、銀行員を目指した父は、多くの銀行の就職試験に合格したそうですが、思いがあり、故郷である地元秋田の銀行へ就職したとのことでした。そして、いま私が飲食業を主たる生業としているのは、父のこの経緯があってのこととなるのです。
 
 高校2度目の退学処分となった私は、医師になる夢を諦めて学問と関係のない世界で生きてゆくことを決めました。色々と迷いましたが、最初に選んだ道は「美容師」でした。当時の美容業界の構図は女性が99%を超える世界で男性は不在だったのです。若い私はこう考えました。「料理は主に女性が作る、しかしコック、板前などプロとして料理を極めているのは主に男性だ。となると男性不在の美容師業界には男性が活躍できるチャンスが眠っているのではないか?」と。そんな浅はかな考えで私は美容師を目指し、芸者さんや水商売の女性が多かった浅草最大手の美容室チェーンで住込みとして修行を開始するのでした。当時は労働環境も悪く、朝6時から深夜の25時までの仕事で給料は5万円、若いころ、暴走族であった私は車をそばに置いておきたかったのですが、駐車場が月3万円。つまり生活できないほどの薄給でした。しかし「必ず成功する」という夢があったから耐えることができたのでした。
 
 そんな私へ羽後銀行新潟支店長をしていた父から電話がかかってきました。「新潟に「村さ来」という居酒屋がありとても流行っている。フランチャイズというアメリカから来た新しい展開方法で全国展開をしている。その方法は47都道府県を地区本部という組織に分けて販売、そのエリアでの展開を任せるというものだ。そして秋田エリアがまだ空いている。確か雅彦は学問に関係のない世界として「調理師」も選択肢として持っていたよな?お前が秋田でやるというならば俺も銀行を辞めて手伝おうかな。」という内容でした。店を持つのには資金が必要です。よくよく話を聞いてみると、その資金を銀行員である父が工面してくれ、しかも店の運営も手伝ってくれるということなのです。私は2つ返事でそのありがたい提案にのりました。
 
 当時、父は立場上、簡単に辞める事は出来ませんでした。一方、修行中の私の仕事は、美容師最初の登竜門である「シャンプー」でしたが、お客様からの指名数が全店No1という栄誉を頂けるほど多くのお客様にご贔屓を頂戴しておりましたので、私も簡単に辞める事は出来ませんでしたが、美容室を経営しておられた社長と32回に渡る面談を重ねてようやく許しを得て、父よりも早く秋田に戻り、秋田料飲コンサルタンツという会社を設立、私の飲食業界での人生がスタートするのでした。
 
 羽後銀行本店営業部。そこで融資課長をされておられたのが、のちに北銀行頭取(旧羽後銀行)となられる伊藤新(あらた)さんだったのです。伊藤課長は、私と同じ秋田南中学校の2学年先輩ですが、私とは違い成績優秀、秋田で一番の進学校である秋田高校から早稲田大学商学部へ進学し、日本債券信用銀行を経て、羽後銀行へご就職されました。伊藤頭取がファンであるフォークグループ「アリス」のドラマー矢沢透さんとの弊社が経営するイタリアレストランでの楽しい会食など、伊藤頭取との数多いエピソードの中で、今回は思い出深い2つのできごとについてお話をしたいと思います。
 
その1
 ある日、伊藤課長と面談の席で私は会社の未来について相談をしておりました。「今は秋田料飲コンサルタンツで村さ来の秋田地区本部として事業をしているが、この事業にはいずれ衰退期が来ると思う。そうなる前に未来へ向け、順調な今のうちに種を撒いておきたい。具体的には新会社を設立、独自の飲食ブランドを立ち上げ、それをフランチャイズとして全国へ展開して行き、地元秋田へお金を集める事ができる企業を目指して行きたい」と。そして、目の前にあった銀行のメモ帳に「ドリームリンク」と書き伊藤課長へお渡ししたのでした。これが後に弊社グループ母体となるドリームリンク設立計画を初めて身内以外の外部の方へ相談した瞬間でした。
のちに伊藤課長からご理解を賜り、丁寧なアドバイスを頂き、「想像を創造する」というキャッチコピーを会社のイメージと決定、伊藤課長に続く2人目以降の方々へお配りする名刺を印刷してドリームリンクは誕生しました。
 
その2
 この様な経緯で誕生したドリームリンクは店舗展開をスタートし、順調な船出をしておりました。そんなある時、伊藤課長から連絡を頂きました。「秋田県にはIPOを目指している会社が少なすぎる。それを打開しようと秋田県はその志を持つ県内企業を発掘し支援を行う「秋田企業育成21プロジェクト」という制度を設立するそうで、これに認定されると最大2億5千万円の資金を秋田県の保証で調達できる制度となる。どうだ?ドリームリンクで手を挙げてみないか?」というものでした。
願ってもいないチャンスです、私たちはのちにドリームリンクの副社長となる最上と会社に泊まり込み1週間徹夜をしてプレゼン資料を作り上げ、審査に挑みました。そして見事に合格を頂くことが出来たのです。その資金を基に、渋谷と新宿へ初の東京出店を果たし、ドリームリンクの表舞台へのデビューがスタートしたのでした。
 
 実は、伊藤頭取のお父様も羽後銀行OBだそうです。伊藤頭取とは同郷というだけではなく「同じ中学」「私が社内で銀行担当をしていたころの銀行のご担当者」「父親がともに羽後銀行」など、不思議な共通点がございます。そして何よりもドリームリンク設立時の最初の相談相手であり、県外展開のきっかけを作って下さったのです。東京で高い評価を得たドリームリンクはその後、全国展開を行い、現在は北海道~鹿児島に店を構えております。伊藤頭取はイベントや会合のご挨拶などでことあるごとに「実は最初にドリームリンクの名刺をもらったのは私なのです、当時は、まだ名刺が出来ておらず、メモ帳に村上雅彦社長がボールペンでドリームリンクと書いて私にくれました。いま振り返るとこれがドリームリンク第一号となる名刺だったのです」と当時のエピソードをユーモアと笑いを交えて楽しくスピーチして下さります。それは、私にとって、とても嬉しく、そして名誉なことであり、ありがたい思い出でございます。
 
 ドリームリンクはその後、コロナに巻き込まれ苦労の道へ突入しますが、その時も伊藤頭取はしっかりと会社を支えて下さりました。コロナを乗り越えることが出来た私たちは、これからそのご恩に報いなければなりません。ドリームリンク設立時の「全国展開」「地元の為」という目標を、コロナが明け第二の創業期と位置付ける今「世界展開」「地元の為、日本の為、世界の為」という目標に進化させ実現することが尊敬する伊藤頭取へのご恩返しと決意しております。
 
 伊藤頭取の時代を読む洞察力とセンスは素晴らしいもので、少しでも先輩に近づける様にこれからも頑張ります。ここでは書ききれない多くのエピソードと、伊藤頭取との不思議な繋がりに感謝を込めて。

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